変わり続けた本牧-戦後70年の記憶を集めて


 歩いて3分の幼稚園に2年通い、歩いて15分の小学校に入学し、歩いて5分の中学校に進学し、自転車で10分の高校を卒業して、受かった大学も県内だったので実家から通った。

 アルバイト先はこれまた歩いて10分の映画館。別に、特別愛着があるとも思って無かったけれど、離れてみると地元と言うのは愛おしくなるものだ。

 社会人になり、一度本牧を離れたものの、とある事情で「出戻り」した。両親には申し訳ないと思いつつ、親といる時間が兄2人より絶対的に少ない末っ子なので、ある意味親孝行だと勝手に良い解釈をして、心おきなく実家暮らしをしている。

 出戻って気付くことが少しあった。当然のことながら、街の少し少しが変わっている。三渓園通り商店街(通称 三之谷商店街)は店の多くが閉店してしまった。

 白坂さんが営んでいたのになぜか店の名前が「キムラヤ」だったパン屋さんもマンションになった。独特の大きさで軽くトーストすると歯触りが絶妙だった食パンも、もう食べることは出来ない。

 客としては縁が無かったけれど、郵便局のアルバイトの時に訪れたことのあるバイオリン工房も無くなってしまった。優しそうな職人のおじさんは今も別のところでバイオリンを作り続けているのだろうか。それとももうやめてしまったのだろうか。

 サティはイオンになり、アルバイトをしていた映画館は閉館し、マイカルのショッピング街として作られた建物が軒並みマンションとして生まれ変わってしまった。

 しかし、好きな街の景色と言うものはあまり変わっていなかった。山頂公園から本牧埠頭側方面に広がる景色だ。手前には家庭の明かりが無数に輝き、遠くにはキリンのような工業用のクレーンがずらりと並んでいる。恐らく、ごまんとある景色なのかもしれないけれど、僕はこの景色が好きだ。

本牧山頂公園
Photo:加藤甫

 そんな本牧を戦後70年のこのタイミングで振り返りたい。本牧で戦後70年の作品を作りたいと思ったのが、2014年の年末。

 ラジオ日本のプロデューサーとの会話の中で、こっそり提案してみた。そのプロデューサーは僕のような人間の提案にも耳を傾けてくれ、是非動いてみてくれとのことだった。

 一度波に乗ると、面白いもので、素敵な出会いがこの企画を後押ししてくれる。高校時代の同級生で、現在はプロカメラマンの加藤甫くんだ。高校時代は恐らく体育の2クラス合同授業くらいでしか会ったことのないモジャモジャ頭のハジメくんは、久しぶりの再会で、恐らくロクに話したことも無かった間柄なのに、この企画にすごく興味を持ってくれた。

 どういう形になるかは分からない。でも、やってみなければわからない。そんな大学1年生みたいなことを、10数年後にもやってるとは、想像もしなかった。そう言った意味では、どれだけ経験を重ねても、想いというものは変わらないものだ。

 本牧だけでなく、伊勢佐木町・石川町・黄金町など、横浜大空襲で被害を受けたところを広く取材していった。そこで話を聞きまわってわかったことがある。

 70年と言う月日は、僕らが思う以上に時間(とき)が経過していると言うことだ。30年とちょっとしか生きてない僕らには本来は想像ができない時間なのだ。ところが、小・中・高とお行儀よく縄文時代から勉強しちゃってるものだから、70年という時間の経過を知らぬ間に「短い時間」だと認識していた。

 フラッと現れて「70年前の出来事を教えてくれ」と言っても、すぐに思い出せるものではないのだ。ましてや、生死の境目の出来事。簡単には思い出したくないのだ。

 いっぱい歩いて、少しずつ情報を聞き出して。そうやって、少しずつ70年前の出来事をハジメくんとたどっていった。

 実は、プロデューサーに企画を提案した時にあらすじは出来ていた。何となく、本牧と言うのは特殊な街だったようだ、そういうことを感じる節がしばしばあったのだ。

 アクセスがビックリするほど悪いのに、なぜか住みたがる人間が多い。それは、よそ者の皆さんが、なぜかこの街に「オシャレ」というようなイメージを持って憧れを抱いているからだ。本当かどうかは知らない。でも、僕が初対面の方に本牧出身だと伝えるとなぜか、ほほぅという感じになる。

 こっちは好き好んで本牧に住んでいるわけではないので、勝手に良いイメージを持ってくれるに越したことは無いのだが、何か「お金持ちの家庭」とか「ハイカラ」みたいなイメージが付きまとうのだ。特に不自由なく生きてきたし育てていただいたが、父は警察官で、バブルの時代だって狂ったように給料が上がることもなく、淡々と皆様の安全・安心な暮らしを守ってきた、いち公務員だ。だから、よそ者の皆さんが抱いているイメージとは程遠い生活をしてきた。

 話はそれたが、「本牧=オシャレ」というイメージがアメリカ文化から来たもので、それが戦後の接収地に密接な関係があったことも何となく知っていた。おそらく、小学生の社会の授業の一環で勉強した覚えがある。しかし、違和感は小学生の頃からあったのだ。ついこないだまで戦争してた国の文化を「オシャレ」と言って、もてはやすのだ。え、じゃあ戦争ってなんだったの、って。

 恐らく、元々本牧の中にいた人間は、自分の住んでいる街の事はオシャレに思ったことが無いと思う。この街で懸命に生きてきた結果が、街の風景に現れただけだ。店に横文字が並ぶのも、ディスコやレストランバーが多かったのも、米軍兵とその家族が街にいて、それに向けて商売を必死にやってきた結果なのだ。

 だから、この街を「オシャレ」なんて一言ではまとめられない。この作品で、そのイメージの向こう側、というか元々何があってそうなったか、という根本を掘り下げようと思っていた。しかし、結論というか着地地点を決めていなかった。すぐに思い付かなかったのが原因の9割だが、今までは結論ありきの取材というものが多かったので、出来ることなら、取材していく上で作品の締めを決めて行きたいという気持ちもあった。

 これが、やってみると結構怖いもので、取材していながら、フワフワした気持ちになる。どこに向かうべきか決めていないのだから。だから、たくさん話を聞いた。小学生から通っていた書道教室の先生のお話については何回かに分けて、しかも1回のインタビューで数時間を費やした。

 それでもまだ、こういう結論にしようと決め切れなかった。悩んでいる中、違う番組のプロデューサーに広島に行ってみたらと声をかけられた。そう言えば、人生で一度も広島と言う土地を訪れたことが無かった。時間を無理やり作って広島へ飛んだ。いや、飛んでない。夜行バスで12時間かけて向かった。

 目標は原爆ドーム。せっかく本物を見るのだから、むしろ知識を付けずに感じられるものを感じてこようと、勉強する面倒くささを正当化して、長時間座り続けて壊れたお尻をいたわりつつ歩いた。

 到着すると、雨の朝だというのに、人は結構いた。外国人もいた。当然ながらドームの周りには柵があって、近づくことはできない。周りを半周して、川側から見ると、結構建物が近くに見える。そこで、気付いたのがヒビを埋めたりしている「補修の跡」だ。無数のヒビに、無数の補修の跡。本当に当たり前のことなのだが、管理する人間がいなければ70年という月日が経ってなお、その形を留めることは出来ないのだ。

 そんな当たり前で簡単なことも、行って見てみないと気付かない。けれど、これに気付けた時、とても視界が俯瞰で見えた。人間、「当たり前」には冷たいもので、「当たり前」に対して当たり前であることがなかなか気付けないものだ。

 本牧は、変わり続けた。変わり続けることが当たり前だった。漁師町が横浜大空襲で焼け野原になり、戦後はアメリカ人が駐留し、外国人に向けた商売をする店が増え、接収地が返還されると大型ショッピングセンターが出来て、今度はショッピングセンターを潰してマンションが出来て。時代と共に街が変わらざるを得ない状況になり続けてきた。その中で、70年前の出来事は、形を消してしまった。もう、体験した人の記憶の中にしかその出来事は無い。

 その事実を今一度皆さんにお伝えをし、そのうえで私たちの世代ができることをこの作品をお聞きの皆さんも考えてみませんか、というのがこの作品の結論になった。

 ドキュメンタリー作品としては弱い結論だと思う。それでも良いと思った。聞いて戦争・横浜大空襲を後世に残すということについて考える、そのきっかけになればそれ以上のことは無いのだから。


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星崎直也

ラジオディレクター。1984年横浜・本牧生まれ。文教大学情報学部広報学科卒。大学時代は佐々木昭一郎氏・深瀬槇雄氏に師事。アイドル・芸人・歌謡曲・報道など多岐に渡る番組のディレクターを務めている。